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川手 鷹彦

村井実のこと

「美しきものを求める糸無凧」

北米大陸で成人を迎えた私は、休学して一旦日本に戻ることにした。
数年後に渡欧するまで、学習意欲を満たす指南役に仰いだのが、当時慶応義塾大学の教授を務められていた、村井実氏だった。
慶応出身者を中心にたくさんの門下生に囲まれ、驚くべきことに、そのひとりひとりに別々の、且つその人材に合った研究テーマを与えていらした。
数人の仲間たちとご自宅へ押しかけ
「先生が僕らの年頃に、一番感動した書物を講義してください」
という生意気な要求に間髪入れず
「プラトンの『ソクラテスの弁明』」
とおっしゃってから沈思されること一分ほど・・・
「うん、同じプラトンの作品だが、こちらにするよ」
再び彼の口から出たタイトルは、その後数十年に亘って治療教育と藝術の道標となるものだった
『饗宴/シンポージウム』
宴に集まった人々が次々とエロス/愛の賛美をしていくのだが、ソクラテスの演説の中で
「教育とは、父である教師の支えと励ましにより、母である生徒が《知》の子どもを生み出す」
件りは特に秀逸である。
ある日、エロスと藝術行為について話しているとき、先生は、
「君たちアントロポゾフィやオイリュトミーを知っているかい」
と訊ねられた。
一九七八年のことである。
日本人初のオイリュトミスト上松恵津子氏の帰国記念公演が一九八一年であったのだから、オイリュトミーが何か知る由もない。
村井氏は
「アントロポゾフィというオカルティズムに根ざした舞踊藝術」
とおっしゃった。
「オ、オカルティズムー!?」
当時流行っていた映画エクソシストのことではなく、二十世紀最大の神秘学者ルドルフ・シュタイナーの深い叡知「人智学(アントロポゾフィ)」に基づいた秘教藝術であると、このとき初めて知ったのである。

三年後私は再び村井実の門を叩いた。
「先生、本格的に人智学を勉強したいのです」
師は、とうとう来たかという顔をされて、一通の紹介状を書かれると
「これを誰々君に渡しなさい」
と云ってくださった。

一九八二年も更けようとする頃には、
・・・片雲の風にさそはれて、漂泊の思ひやまず・・・
ヨーロッパへ向かったのである。
演劇を修め、治療教育を学んだ。
役者そして演出家として舞台に携わり、言語教師として治療教育施設で子どもらと寝食を共にした。
十二年の歳月が過ぎ、帰国した。

報告に伺い、この道を示してくださったお礼を述べると
「そんなことをしたつもりはないけどね?」
と一旦はうそぶかれ、そして真顔になられた
「君に合ってると思ったからね」

のちに分かったことだが、あとにも先にも人智学、シュタイナー神秘主義を学ぶようにと薦められたのは、私ただひとりにとのことだった。
ルドルフ・シュタイナーとその思想は、日本のアカデミズムだけでなく、本場ヨーロッパでも「キワモノ」である。
「キワモノ」は「際物師」に、ということか?
自嘲すればキリがないが、こんな嬉しい言葉をくださったこともある。
帰国後の活動団体名を「靑い丘」にしたいと思うがどうか、お尋ねした時のことである
「大空を自由に行く雲を思わせるねえ、正に君そのものじゃないか!」
とおっしゃって、カラカラとお笑いになった。
「確かに君は糸の切れた凧のようだ。しかしね、そんな生き方が出来る自由は誰もが持てるわけではない。これからも雲のように糸無凧のように生きなさい」

村井実の著書を読むとそのどれもが平易に書かれている。難しい哲学を優しい言葉で伝えているのだ。
特にお薦めしたいのが
『もうひとつの教育』
で、
世界各地の旅先から、つまりまさに漂泊の途上から・・・(そうか、かつては村井実も糸の切れた凧、雲のようだったのだな)・・・三四郎くんという多分架空の若者に対する手紙の形式をとりながら、ドグマティズムや偏狭なシステム・メソッドに陥らない自由な教育について書かれている。
私の著作物の中で一切ルドルフシュタイナーに触れていないのは、まさに教育がシステムやメソッドではなく人間による自由な行為であるという師の教えを実践したいからである。

師はまたずいぶん以前から日本の学校教育の枠組みについて問題提起をしておられ、明治以前の寺子屋の形態の優秀性について指摘されていた。
「日本は近代化の段階で幾つかの誤ちを犯した。そのひとつが教育制度で、イギリスで試験的に実施されて直ぐ廃止された教育システムを、丁度運悪く視察したために、取り入れてしまった。どちらにせよ、教師と家庭との信頼関係があって初めて成り立つ〈寺子屋方式〉こそ日本人に相応しい。当時日本中にあった寺子屋の総数は三万とも五万とも云われている。あの時代これほど広範囲に民衆の子どもに向けて教育の行われていた国や民族などどこにもなかったんだよ。それを明治政府はこともあろうに根絶やしにしてしまったのだ。僕たちは今それを復活させなければならない。永い民族の歴史の中から先達が編み出した、日本人に最も相応しい教育方法だからね」

前回ご紹介した哲学者中村雄二郎と村井実がたった一度だけ同席したことがある。拙著の出版記念会でのことだ。青山のフランス料理店で行われプログラムがあらかた終わった後も、お二人はワイングラスを傾けながらずっと話に花を咲かせておられた。素晴らしい光景だった。日本を代表する知の二大巨人がここにいる。それも僕の未来を励ますために来てくれているんだ!
後日中村氏が
「君は若い頃素晴らしい師に巡り会えたんだね。哲学と教育学って微妙な関係があってね。正直言ってどちらもギリシャ哲学などを参考にしているから尚更のことややこしい関係なんだよ。それで僕も今まで教育学関係の人とは自ら好んで付き合うことをしないようにしていた。村井先生のことも聞いてはいたが、実際に会ってみると、いやほんとに素晴らしい人格者だ。敬服したよ」

私は村井実から善=アガトスと教育に於ける化学の結婚を学んだ。
私は中村雄二郎から悪の哲学系譜と生きること死ぬことの大切さを学んだ。

一九九四年、日本での「靑い丘」発足式にお越し戴き、祝辞を述べて戴いた。私共のことを喩えて
「美しきもの、善きものを求める靑い丘」
と言ってくださった。
この言葉が私たちを励まし、今尚研究所には、
美しきもの、善きものを求める
美しき子ども、善き子どもが集う
勿論大地に生を受けた全ての子どもたちが、本来美しく善いことは、云うまでもない。


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