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川手 鷹彦

哲学者中村雄二郎のこと

「臨床の知、演劇的知」

哲学者中村雄二郎は、混迷を極め、出口を見つけることのできない現代文明荒廃の原因のひとつを、物質主義・能力主義・優生原理に固まった近代知であると看破し、その張本人を近代以降の日本も含めた欧米的論理・科学思考、即ち「北方の知」とした。
そして、この閉塞状況を打破するキーワードとして「南方の知」「パトスの知」を挙げ、代表例としてバリ島宗教文化、特に「魔女ランダの舞」を提示したのである。
正式には「舞踊劇チャロナラン」と呼ばれるこの厄払い儀礼は、高度の藝術水準が求められると同時に、村に存在する禍いわだかまりを浄めるという重責を担うもので、それが中村の主唱する

《「演劇の知」が「臨床の知」を呼び起こし、「北方の知」が排除・駆逐・忘却したパフォーマンス(身体性を備えた演劇的行為)シンボリズム(事物の多義性)コスモロジー(固有の世界観)の三つの力があいまって人の病や共同体の災禍を癒し浄化する》

に強く共振したのであろう。私がスイスで氏の知己を得た1980年代終わり、ご自身のおっしゃる通り、氏は確かにバリ・フィーバーに侵されていて、駆け出しの役者であった私をバリ行きに焚きつけた。
私もいとも容易くアジテーションに乗り、バリへ向かった。
「パトスの島」での顛末は拙著『「魔女ランダ」への道』に詳しい。本書は非売品で、ご興味のある方にはお配りすることができる。一般財団法人《花の家》運営事務局までお問合せください。
それに併せて中村雄二郎氏の『魔女ランダ考』(岩波書店。単行本、同時代ライブラリー版、岩波現代文庫版がある。岩波現代文庫版のあとがきには、中村氏ご自身による川手との出会いのエピソードが記されているので、是非ともご参照いただきたい)、更には中村氏との対談・共著『心の傷を担う子どもたち』(誠信書房)を読んでいただければ幸いである。
『心の傷を担う子どもたち』の出版が2000年、その前後中村は矢継ぎ早に重要な著作物を世に問うと病いに倒れた。思い起こせば彼は確かに、「執筆」という名の「ランダの舞」を舞っていた。
そしてそれから七年ほど経った頃、今度は私が「ランダの舞」に倒れた。
嘗て氏が語ってくれた三つの言葉を想い出す。

「君のランダの舞は、日本のインテリゲンチャには遂に理解されないだろう。けれども構うことはない。大切なことは、評価とは別に、し続けなければならないのだからね」
「オームのこと(1995年地下鉄サリン事件など、オーム真理教による社会混乱)は日本のアカデミズムを根こそぎ揺さぶって崩壊させた。立ち直るには、三十年、いやそれ以上かかるだろう」
「君のランダの舞を見に、必ずバリへ行くよ!」

第三番目の言葉は、叶うことがなかった。けれども何れの言葉も、私にとって常に大きな励ましとなり、諌めとなった。

地下鉄サリン事件の後、1997年に、またもや国中を震撼させる二つの事件が起こった。神戸須磨で起きた連続殺傷事件と、てんかん発作に似た光過敏性発作で多くの子どもたちが病院に運び込まれた所謂「ポケモンショック」である。
三つの事件は二十世紀末日本の闇を象徴したが、これらの最重要案件に真剣に取り組み、そして「闇」を浄化しようと行動した、極めて少ない知識人のひとりが中村だった。

「・・・オウム真理教事件は、現代の日本の文化状況そのものを反映して、そのなかにはあまりに雑多なものが多く含まれている。一面キッチュでありマンガ的であったが、そのことによって人びとの幅広い無意識をとらえ、しかも現代日本の知的世界をほとんど制圧した。すなわち、大多数の宗教学者たちは〈してやられ〉、仏教界をはじめ宗教界の識者たちは、問いの立て方がわからないために、いわば〈手も足も出せなかった〉。わずかにいきいきと対応することができたのは、事件の経過にたえず付き合ってきた社会評論家やルポライターたちであった。現在では、刑事事件の対象としてオウムの裁判は延々としてつづいているのに、多くの人びとはオウム真理教事件そのものを〈一場の悪夢〉として忘れ去ろうとしている。・・・」

1998年6月、サリン事件から三年、酒鬼薔薇聖斗と名乗った須磨の少年が神戸新聞社宛てに第二の声明文を届けた丁度一年後、中村は『日本文化における悪と罪』(新潮社)を出版した。上記文章はその抜粋だが、氏の危機意識に応え、またそれを継承しようとした「インテリ」「アカデミスト」は皆無に近かった。そのことがそのまま、氏の危惧された

「立ち直るには、三十年、いやそれ以上かかるだろう」

を皮肉にも表わしている。

さて、川手鷹彦も中村雄二郎の伝言に応えきれた筈もない。
しかし川手は川手なりの継承を探っている。


演劇的知は戯曲、演出、演劇教育によって
臨床の知は治療教育に於ける藝術行為によって

ただ、分野から言って、川手に気になったのは、「オーム真理教事件」よりも神戸須磨の事件だった。
1970年代後半北米大陸にいた頃、彼の地で起こる猟奇的殺人や若年層による諸々の事件を耳にするにつけ、どこか自分とは、日本とは、関わりのないことだと思っていた。それが今、列島で起きている。そしてそれは、ひとつの時代の「始まり」なのだ。

さあゲームの始まりです
愚鈍な警察諸君
ボクを止めてみたまえ
ボクは殺しが愉快でたまらない
人の死が見たくて見たくてしょうがない
汚い野菜共には死の制裁を
積年の大怨に流血の裁きを

SHOOLL KILL
学校殺死の酒鬼薔薇
(1997年5月27日、殺害された子どもの口にくわえさせられていた文章)

2000年から法務省保護局の呼びかけで始まった少年少女のための演劇プロジェクト「オイディプス王」で総指揮と演出を委嘱された私は、須磨の少年に接触を計っていた。大きな闇に覆われた中に時折現れる一筋の光のようなものは何か、その光を何らかの形で生かすことは出来ないだろうか、自らに問うていたからである。
私は少年の身柄が拘束されていると思われる刑務所に手紙を書いた。
丁寧な返事が来た。
「少年の人権を守るため、所在の有無を教えることが出来ない」
という内容だった。残念ではあるが、当然のことである。
この事件が冤罪である、という観点が存在するが、ここでは立ち入ることが出来ない。
訴えたいことは、これが「始まり」だったことで、その後同じ時代性を持つ幾つもの少年少女事件が発生したことである。

2004年、岐阜県の多治見市、土岐市、笠原町に住む子どもたちを対象に行なわれた「オイディプス王」では、挿入劇に学校での子どもらの風景を加筆した。「太郎」という発達障害児を含む子どもらの会話である。
それまで私は、シェイクスピアやギリシャ悲劇に代表される古典の中に人類に必要な全てのメッセージがあると思っていた。その考えに基本的に変わりはない。しかし現代日本が件の事件を境に新しい時代にはいったことで、発達障害の子らに代表される新人類(個人的には「人類亜種」と呼んでいる)により、古来のメッセージの再生が行われているように感ぜられる。それは「不易流行」の「流行」に当たるかもしれないが、実は「不易」の「再生」なのだ。

実は中村は既にそのことに気づいていた。 上掲『心の傷を担う子どもたち』を作る素材となった三会場十数時間に及ぶ対談の中で、中村の口から極め付けのひと言が流れ出た。

「これまで人類を導いてきたのは、偉大なる個性だったね。即ちゴータマやイエス、聖フランチェスコらのことだ。ところが現代にはいって、多くの子どもらがイエスやフランチェスコとして登場してきているように思えて仕方がないんだ」

「心の保護を求める子どもたち」を持つ親や治療教育者の間では、個人的・非公開的に囁かれてきたことである。
しかし、本邦をそして現代を代表する哲学者が明言するとなると、まことに優れて新しい時代の幕開けが宣言されたこととなる。

2006年の秋から冬にかけて、東京大学の高学年生、大学院生、そして他大学、他地域から来た多くの聴講生たちに、「治療教育と言語藝術」を講義した時、彼等が神戸須磨の少年と同年代であることに気づいた。
彼らは覚えていた。自分と同じ年回りの少年がしたことに恐ろしさを感ずるともに、少年に対する強い共感を覚えたことを…
その頃は、「アスペルガー症候群」も「発達障害」も、未だ慣用されていない術語だった。
授業が終わった後に質問にきて、
「自分ももしかすると発達障害ではないだろうか」
と相談する学生も何人かいた。

時代は確かに変わっていた。
中村雄二郎はそのことに気づき、変容期を見計らって地上に降りてきた闇を、大天使ミカエルの剣ならぬ「筆」一本で払拭しようとした。
それは偉大で且つ無謀な試みであり、ふんどし一丁でそこまで闇とがっぷり四つに組んだ人間を、私は知らない。


哲学者中村雄二郎との共著


『心の傷を担う子どもたち
  
—次代への治療教育と藝術論—』

(2000年、誠信書房)


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